自制心と美学について考える(4)
いいかげん「クソつまらない記事はもういいから、空気読んでバイクについてなにか語れよ」と、お叱りの声が聞こえてきそうです。
自制と美学について考えるシリーズも、ついに最終回となります。
前回まで、人間関係における以下3点について、長々と意見を述べさせていただきました。
- 美学としての自制
- 合理的な自制
- 思いやりの自制
・美学としての自制。
物事は粋に計らいたい。心意気は気持ちいい。しかし、お互いが精神的に成熟していなくてはならないわけです。美学は人に押し付けるものではありません。お互いが察し合うものです。これが正しいのだという主張そのものが野暮でしょう。
人間関係の距離感は人によって違います。
察し合いが難しいから、明確にルールを作るしかないし、ある程度は合理的に振舞うしかないのです。
・合理的な自制
確かに、ゲーム理論は様々な社会問題を解決する役に立っています。かといって、ゲームのように合理的に考え、相手を血の通った人間として見ない人もいます。ですが、ネットであっても向かい合っているのは人間です。
やられたらやり返す「しっぺ返し戦略」は人間関係において有効な戦略ですが、人間はプログラムではありません。ときには非合理的であってもよいのではないでしょうか。
人間も動物ですから、生物として利己的なのは当たり前のことです。なるべく戦わずに(ケガをせず)少しでも多く収穫したい。ライバルを蹴散らして子孫を残したい。いくら偉そうなこと言っていても、誰もがそんなものかもしれません。
しかし、それでは動物と同じだから、約束をしてお互いの権利を守る。約束をすることで、秩序が生まれたわけです。
だから、ルールを徹底する。違反者は見せしめとして吊るし上げる。
契約は、絶対に破ってはならない約束事です。破るとペナルティがあります。
きょうび、なにをするにも同意書にサインやクリックをします。
約款をじっくりと読むと、あり得ないなと思うような事柄まで記載されています。
社会の良識が人それぞれ過ぎるため、必要に迫られて契約社会になったといえます。
争いに発展するかは、利己的か秩序的かより「不快かどうか」が判断基準になると思います。
例えば、契約至上主義者は、法や契約内容に抵触しない限りはなにをしてもいい、契約に穴があれば(人道に反しても)履行するのは正しいことと主張します(現代では公序良俗に反することは法律で禁止されています)。
シェイクスピア喜劇ベニスの商人では、ユダヤ人の高利貸シャイロックは、敵対する商人アントーニオに金を貸します。復讐として、返済できない場合はアントーニオの肉を要求できる条件を契約書に加えました。
ですが、ご存じのように人肉を切り取る権利は認められるものの、血を一滴でも流すと契約違反になるという、法学者に扮したポーシャの機転の利いた主張により助かります。さらに、高利貸は殺人の罪で財産没収の上、棄教まで求められるのです。
この結末は、胸がすっとします。もう、理屈を超えて人肉(生命にかかわる)を要求する行為が不快なのと、追い詰められた状況からの見事な逆転が気持ちいいのです。財産没収までされてしまい、いい気味だと思ってしまいます。
ですが、 冷静に考えてみれば、人肉裁判にたいするポーシャの主張は詭弁ですし、やりすぎの感も否めません。
高利貸は、契約通りの主張をしているのですからきわめて秩序的ですし、引くに引けなくなってしまった状況でした。しかし、彼が憎まれるのは、行いが不快だからです。
共感を呼ぶ行為か、その行為が不快かどうか。それが社会の善悪の掟のような気がします。
・思いやりの自制。
人を思いやり、けがれのない気持ちは大切です。かといって、高潔すぎる人とも私は関わりたくありません。水清ければ魚棲まず、といいます。
高潔過ぎれば、自分と違う意見や価値観を間違っていると決めつけるでしょう。
私は、自分だけが正しいと思い込んでいる人の同調圧力の攻撃性が本当に恐ろしい。
間違いや失敗に不寛容で、容赦のない「自己責任」が一人歩きする社会は「共感」という錦の御旗を掲げ、寄ってたかって「間違っている」人を叩き潰します。
「道徳的な人々」が、高利貸しに行った仕打ちは本当に正義なのでしょうか。
自分には理解できない者の存在を肯定するのが思いやりの自制です。
こうあるべきだ、という執着から離れて、いま、自分はどう感じているか。
そう、自分の胸に問いかける時間を持ちたいものです。
・世知辛さをうけいれ商売倫理を自身に問い直す
なぜ、バイク屋の仕事と関係のない説教じみた駄文を垂れ流しているのか。この場を借りて説明するのをお許しください。
私は商売人に向いていないな、とつくづく思います。
ある人物に問われました。
「お金を儲けてなにが悪いのですか」
この一言に言い返すことができない。反論しようにも言葉が思いつきませんでした。
確かに儲からなければ商売ではない。しかし、儲けるためにはなにをしてもいいのか。
どこまでが許されるラインなのか。
お互いにとって、公平な取引とはなにか。
このような「道徳的な考え」は人それぞれです。他人に教えるものでも教わるものでもないと思っています。
私は単に、問いかけを世の中に発信することで頭の整理をしているのです。
ネットに実名で発信するのは、正直勇気のいることです。誰かの人権を侵害したら、最悪は訴訟問題に発展します。間違えたことを書いたり、過激な主張をすれば炎上騒ぎになり叩かれます。己の考えなど書かずに済むなら書かないほうが得なわけです。
ですが、チラシの裏に書いただけではまとまらなかった思考が、誰でも読める環境に書き込むことで、くっきりと浮かび上がってきました。
真剣勝負だからこそ、思考が研ぎ澄まされ、物事への関心が強くなり、さまざまな感覚が敏感になるからかもしれません。
芥川龍之介が著した「羅生門」という短編小説があります。たしか教科書にも載っている話ですからご存じだとは思いますが、あらすじを書きます。
災害で荒廃した京都に、数日前に仕事をクビになった下人がいました。困窮のあまり盗人になるかと考えますが、勇気がありません。
下人は、死人の髪の毛を抜いている老婆を見て、義憤に駆られてつかみ掛かります。
下人は老婆に髪を抜く理由を問いただしますが、答えが存外平凡なことに失望します。
老婆は、つぶやくような声で言いました。「この女は蛇を魚と偽って売っていた。悪いこととはいえ、生きるために仕方がなかった。だからこの女も自分を許してくれる」
下人は、それを聞いているうちに盗人になる勇気が生まれてくるのです。
「では、おれもそうしよう。恨むなよ。盗まないと餓死するのでな」
下人は老婆の着物を剥ぎ取り、何処へ去ります。
人間を鋭い視点で見つめ描写している小説です。人間が生きていくリアルさを考えさせられます。
商売をしてますと、ときには悪魔が誘惑してくることがあります。今のところは突っぱねています。染まってしまったら最後だと思います。なんとかギリギリ食べていけているので、持ちこたえる限りは店を続けるつもりです。
キレイごとを言っている自分を俯瞰できるか。それが重要な気がします。