中村モーターサイクル商会 仕事の話

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自制心と美学について考える(1)

要約

間関係における内的な欲求についての考察です。顕在的な利益を求めることへの疑問から始まり、内的な価値を持つもの、言い換えるなら「自分の中でしっくりくるものは何か」を問い、それは美学であり、本質は自制心であると結論しました。

難しいテーマですが、なるべく自分の言葉で伝えていきたいと思います。

 

・粋(いき)と粋(すい)について考える

 

ざっくりと言うと、粋(いき)とは意気ともいいます。江戸時代からの美意識のことです。

いっぽう、粋(すい)とは京の言葉で、物事を突き詰めたその先にあるもののことです。

 

このテーマは、人によってさまざまな考えがあり、どれが正しいというのはありませんが、先人の考えを咀嚼し、自分なりの結論を述べたいと思います。

 

粋(いき)というのは、言葉にすると説明しにくいものですね。

高嶺の花は憧れのままで終わりにする、踏み込みすぎず一定の距離を保つさっぱりとした潔さと諦め、とくにこうと決まった指針はなく、相反する要素が繊細に釣り合っている様子、損をしてでも筋を通す一種のやせ我慢。こういう感じと捉えています。

 

一言でいえば、「自制の美学」だと思います。

おおらかさと繊細さの入り混じった複雑な意識です。粋も野暮も表裏一体、鏡合わせと言えます。

本来は、粘着質で神経質な性格でも、粋がかっこいいという価値観になると、グチグチいうのがカッコ悪いと思います。だから自制する。執着やこだわるのが面倒くせえ、口約束で十分。契約とか野暮なことはしゃらくせえ、となります。

 

いいところを見せて粋だと承認されたい。だからコソコソ練習して上手くなって、さも上手くて当たり前のように振舞います。

他人の失敗には寛容であることも粋です。「仕方ねえな」の一言で済ましてしまう。

ぎゃくに、人に恥をかかせるのは野暮だとも言えます。「それは野暮だよ」と指摘する人は、実は別の場面で野暮な行為をしているのですが、それには気がついていません。

さらっとしているのに、ウエッティといいますか、重箱の隅を楊枝でほじくるのは野暮だし、人情の機微に鈍感なのも野暮なのです。

 

自慢話もわざとしません。誰かが気が付いて指摘するまでは、ひたすらガマンします。

金がなくとも、後輩には飲食を奢ります。

猫の手でも借りたいくらい忙しくとも、お世話になってる人に仕事を頼まれたら、そちらを優先します。

自分を出したいところをぐっと自制して、こらえる姿が粋なのです。

 

生き方そのものが目的といいますか、カッコいい生き方をするのが価値基準、選択基準となっているわけです。

 

つぎに、粋(すい)について述べます。

凝りに凝ってやり尽くした先にあるものが粋です。粋を極める、と言います。

趣味人。マニアック。こだわりが深く、極めるのが目的です。いくらでも時間もお金もつぎ込んで、とにかくいけるところまでいく、いきたい。いくのがカッコいい。

 

趣味に生きていることで尊敬されている人もいます。財力をもって粋を極めてこそ、本物のお大尽でしょう。

粋人は、趣味にどれだけ手間をかけたか、金をかけたかが重要です。

 

あまりこだわりのない人が粋な生活に憧れても、面倒くさくて疲れると思います。

作法やお約束がありすぎるのです。知らずにやったことが、「それは邪道だ」「わかってないね、これだから素人は嫌だね」と後ろ指をさされてしまうのです。

また、どれだけ深い知識があるか、仲間同士で「口(くち)プロレス」に興じますので、競い合いや意地の張り合いが、また疲れるのです。

 

そして、これが大事なことですが、一見、両極端のように見える粋(いき)と粋(すい)と呼ばれる性質が、一人の人間の中に共存しているのです。

 

痛車を見たときの反応

余談ですが、面白いのは痛車、痛バイクを見たときの人の反応です。

私自身は、正直、萌えアニメに興味がないのでなんとも思わないのですが、周囲にはあまり好意的な反応ではない人が多いのですね。

「気持ち悪い」というのです。オタクが嫌なのか、アニメが嫌なのか、あるいはどちらも嫌いなのかは、彼らとその話題を突き詰めたことがないので分かりません。

ひょっとしたら、オタク特有の一つのことを必要以上に追及する粘り強い行動が「野暮」だと思っているのかもしれません。

しかし、こうも言えます。あえて実在しない二次元の存在を愛でるというのは、憧れを憧れのままで諦める「粋」な行動だと。

また、痛車のカッティングシート施工技術や、デザインのクオリティが秀逸なものが多いのは事実です。オタクには粋(すい)人が多いのも指摘しておきます。

 

 

粋(いき)の美意識では、いちいちと取引を契約や書面にするのは野暮だと考える傾向があります。

それは、お互いが信頼し合っている証とも言えます。約束を反故にするのは、野暮だ。お天道様がみているし悪さは気持ちが悪い。お互いが自制心をもっている。それが前提の関係だからです。

法律でお互いを縛るより、社会的な(その業界の慣習)の流儀に則る。これが粋で意気だからです。

 

うちの店では値引き交渉がありません。ありがたい話です。

 

値引き要求が苦手な人もいると思います。私もそうです。

値段を引いてくれ、ということは、相手に泣いてもらって、自身がより得な取引にすることです。

本当は、誰もが自分を優先したいのです。しかし、それを口にだしたら幼いな、カッコ悪いな、恥ずかしいなと自制する感情が働きます。そして、相手方の立場を考えて尊重しようとする心理が働きます。

 

例えば、列に割り込む人がいると腹が立つのは、みんなが自己優先の感情を自制しているにも関わらず、その人が我が儘な行動をしているからです。

 

しかし、本音は忖度されたいし、特別扱いされたいのが人間です。それをお互いやる。その微妙で繊細な匙加減が粋か野暮かを分けるのです。これが「気持ちのいいやりとり」です。

 

ですが、誰もが粋な精神構造ではないのです。だから、気持ちのいいやりとりをするのはハードルが高い。

 

そこで、このような感情を排除して取引をしよう、合理的な判断で交渉しよう。と考える人が出現します。

そして、契約で明確にルールを線引きしよう。合意した内容は絶対にお互いに守ろう。守らないとペナルティを課しますよ、というわけです。現在の主流な考え方ですね。

 

では、徹底的に合理的な方法で交渉するとしたら、人間関係はどうなるのでしょうか。次回考えてみたいと思います。

 

 

 

修理の考え方 人間が本能的に勘に頼る理由

「なんだかわからないけど、ヤバイ気がする」。「なんか変だ」。

こういった根拠のない不安を覚えることは、皆さんも日常的によくあると思います。

その「野生の勘」で命拾いした経験がある人もいるかもしれません。

 

はるか太古の時代、まだ我々人類の文明が発達していない頃、生き延びるためには「野生の勘」は大切な能力でした。動物の唸り声を聞いたら、とにかく隠れるか逃げる。それがなにか考えている間に殺されてしまうかもしれないからです。

 

経験を積むにつれ、それがなにかを見極める能力が向上します。

例えば、ベテランメカニックがエンジン音を聴くだけで不調の原因を言い当てるのは、経験則による結論です。

 

このような経験則による判断は、結論に達するのが早いのが特徴ですが、押さえるべき点があります。

それは、本人の経験や性質によって偏りがあることです。

 

楽観的な性質なら、「ねじが一本くらい折れていても、なんとかなるでしょ」と結論づけますし、慎重な性格なら、「ねじが折れているから、直すまでは危ないから動かさないほうがいい」と考えるでしょう。

いちおう付け加えるなら、機械操作や運転など全てにおいて安全が優先する作業においては、悲観的な性質が向いています。「かもしれない運転」にはネガティブな想定が必要です。

 

さて、人間が「野生の勘」にのみ従っていたのであれば、いまでもサルとそれほど変わらない動物のままだったのではないかと思います。

 

我々人間が他の動物より進化できた理由は、論理、データを使うようになったからだといわれています。

 

なんだかわからない。それを解明する。観察を繰り返し、自然の原理を、動物、植物の習性を解き明かしてきたのです。

 

初めてエビを食った人は勇気があります。「きっと食えるだろう」とポジティブに考え、それなりに検証して、最後は勢いだったのかもしれませんが、口にしました。そして、見た目に反して意外においしいという事実をみんなにもたらしたのです。

初めてフグを食って内臓の毒で死んだ人もいるでしょう。実験台や犠牲もあったのです。

そのように、これは食える、これは危ないとデータを集め、後の人に伝えることで生き延びてきたわけです。

 

論理やデータを使い、わからないことを解明する。これを楽しいと思えるからこそ人間は進化したのだと私は思います。みなさんも、ミステリー、謎を解明するの大好きですよね。

 

・なんとなく思い込みで行動する意味

 

よく理由はわからないけど、思い込んでいることがあります。

エンジンを止める前に空吹かしをする。なぜ、こんな操作が必要なのか。皆さんに尋ねると、「バイクに詳しい先輩がやっていたから」とか、「かぶり防止のために必要な儀式」とおっしゃいます。

なぜ、この儀式が必要なのか考えてみましたかと聞きましたが、考えたことはないとのことでした。

答えを言えば、現行のフューエルインジェクション車では不要な操作です。論理的に考えればプラグがかぶる訳がない。

 

ネットに書かれている情報や、謎の先輩の言葉を鵜呑みにする。

考えると面倒なことを深く考えない。そんなもんだ、で終わりにする。

思い込みは偏りを生み、錯誤を生み出すことがあるのです。

 

・なぜ?を考えることとは

例えば、故障したバイクの修理をする方法を検証してみます。

 

仮に、バッテリーは単体で正常な電圧があるにも関わらず、メインスイッチをオンにしても電装が機能しない。このような状況についてトラブルシューティングします。

 

 

配線図により、バッテリー内の電気は~ヒューズを通過してメインスイッチに流れることを確認。

 

バッテリーはテスターで測定したら正常な電圧である。ならば、バッテリー~メインスイッチまでの配線に断線がないか。

まずはヒューズを点検する。ヒューズが切れてなければ、メインスイッチまでの電圧の確認やハーネス導通の確認、メインスイッチの確認、接触不良やカプラー端子の不良を疑う。

 

 

と、このような流れになります。なぜ電気が流れないのか一個ずつ可能性を潰していくわけです。

これは論理です。

 

いっぽうで、データに頼る修理もあります。

このようにしたらなぜか直った。この車種はここが弱い。データは非常に便利です。なぜなら、データから推測して最もらしい原因を導きだせるからです。

データの正確性を上げるには母数が多いに越したことはありません。同業者同士の修理データ共有は私の夢ですが、なかなかうまくいかないのが現状です。

 

・経験則とデータの違い

ベテランメカニックの経験則とデータは似て非なるものです。

データはデータ以外の何物でもなく、それをどう解釈するかが問題です。

いっぽう、経験則は先ほど申し上げたように偏りがあります。それが思い込みを生み出し、間違ったアプローチにこだわってしまい、原因解明の足かせとなる場合があります。思考の罠に嵌ってしまうわけです。

それを補ってあまりあるのが結論を出す早さです。ですから、経験則は積極的に活用するべきでしょう。

経験則の偏りから生じる、見落としや思い込みを排除した修理をするには、なるべく多人数で所見を交換しながら取り組むことが重要です。

 

そして、最も大切なことは、「野生の勘」に耳を傾けることです。

よくわからないことは一瞬棚上げにして、まずは安全策を取る。

勘に頼る。これは、人間が生き延びるために太古の時代から行っている方法なのです。

 

愛車に異常を感じたら、そのまま乗らずにまずは相談していただければ幸甚です。

よろしくお願いいたします。

 

春のツーリングのお誘い

昭和の日に、平成最後のツーリングをします

開催日 平成31年4月29日(月)昭和の日

集合場所 関越自動車道 下り三芳PA

7:30集合 8:00出発

目印 レッドサンバーストカラーのSR500(中村号)

上記予告なく変更する場合があります。

 

雨天による中止や集合時間、集合場所など変更ありましたら、公式ツイッターにて発信しますので、フォローしていただけるとありがたいです。

台数把握のため、前日までに参加表明のご連絡をお願いします。 参加費は無料です。ガソリン代と食事代は自費となります。 秩父方面の舗装林道~山梨方面へ向かい都内に戻るコースを想定しています。 オフロードは走行しませんが、酷道をメインに走行しますので、モタードやトレールでの参加をオススメします。 走りメインのため、観光地巡りはしません。

休憩ポイントで走行ルートの案内をします。林道、峠道では各自のペースで安全に走行してください。先行車は分岐点で待機お願いします。燃料タンク容量が少ない人は、ガソリン携行缶をご持参ください。 道に疎いので、迷いながら進むことになるかもしれません。初の開催のため手探りです。グダグダが面倒な方は来ないほうがいいです。 道に詳しい方は、目的地、ルートにご要望があれば提案お願いします。

 参加資格

  • 迷子になっても自力で合流ルートに到着出来る方
  • 事故、故障などトラブルは自己責任で対処できる方。

 事故や故障の際には可能な限りお手伝いしますが、その場で手の施しようがないことが多々あります。予めレッカーサービス等のご契約されるのを推奨します。

 

やりたくない、無理な仕事を断るときに、なぜ罪悪感を抱くのか

中村モーターサイクル商会の時計の針が8時を指した頃、電話が鳴りました。

こんな時間に。嫌な予感がし躊躇ったものの、意を決しコールボタンを押しました。

 

電話の主が、やや混乱した様子で伝えるところによると、スクーターが突然動かなくなり困っているので修理をお願いしたいとのことでした。

当工房はネットで調べて知ったとのこと。当然利用は初めてで、普段からお世話になっている店もなく、ノーメンテナンスとのことでした。

要望として、通勤に使っているので、この場ですぐに直して欲しいこと、今日中に直らないなら代車を貸して欲しいとのことでした。

 

断ろうとすると、実はもう目の前に来ているというのです。直接対応するしかありません。

「参ったな、今晩は早く帰れると思ったのに。しかも、スクーター修理は苦手なのに」

 

 

 

やりたくないこと、できないことは、断れるなら断りたいですね。

 

「関わりあいたくないことや、専門外、興味がない仕事は、なるべくならやりたくない」。

「技術的に難しいことや、人手や日数、予算不足の仕事はできない」。

しかし、現実にはそのような仕事の依頼がありますし、受けざるを得ないことが多かったりします。

 

ここで忘れてはならないのは、仕事を断る閾値が人によって全く異なる点です。

仮に、仕事を受ける判断基準のメーターがあるとしたら、どこまでなら断れなくて、どこからは断れるかのレッドゾーンがグラデーションになっていて、どこから赤と見るかに個人差があるのです。

 

ですから、自分の得にならないことは一切しない、困っていようが知ったことではない、という人もいます。

いっぽうで、困っている人の頼みなら損得勘定ぬきで助けようとする人もいます。

 

おだてや挑発に弱い人もいます。私は違いますが、職人気質の人に多いような気がします。

なんとかその気にさせようと、「中村さんじゃないと無理だよ」とおだてるわけです。

あるいは、「このくらいの作業、もちろんできますよね」と挑発し、断り言葉を封じるわけです。

 

おだてに弱い人は、自分の「デキる人」のイメージを守りたいと思っています。

頼まれた仕事をこなす能力がないと思われたくない、みんなに有能だと思われたい気持ちが強いのです。

だから、引くに引けない状況に自らつっこんでしまうわけです。

 

だれしも、本当はやりたくない仕事を受けるのが負担なのです。なんでこんな仕事を持ってくるのだろうと腹がたつこともあるでしょう。

ですが、断りたいけど、断ると相手に悪いと思ってしまう傾向が人間にはあります。

断るのは自分の意志ではなく、会社の方針だと他者のせいにするのは、その心理が働いているのです。

 

自分の裁量で決めれることは、自分だけ我慢すればいい、となるのです。いわゆる「お人よし」ほど、「断る」ハードルが高い傾向にあるのは納得いただけると思います。

 

冒頭のエピソードでも、「断ったらこの人どうなるのかな?押して帰るのは大変だよね」「追い返したら後味が悪いな」このような想像をすると、断るのは非道な行いのような気持ちになります。

 

このようなシチュエーションでは、断るか受けるかで葛藤します。断りたい気持ちと、受けなかった後に起きる出来事を想像します。

そして、どちらの結果を受け入れられるかを考えたあげく、自分が我慢するほうを選んでしまうのです。

 

できるものならスパーンと断りたい。でも、そんなことをしたらネットに何を書かれるか分からない、ひどい対応をされたとか書き込まれたら嫌だな、と不安になるわけです。

だれしも、共同体の中で生きる以上、はみ出し者扱いされるのは恐ろしいのです。

 

つまり、その我慢が罪悪感から選択した行動であったのなら、自分が相手、組織、社会からどう思われるかが心配だということです。

 

おだてに弱いのであれば、「デキる人」の肩書を守りたくて仕方がないのです。

そしてなにより、自分自身が、困った人を前に頼みを断るような人間だということを受け入れられないのです。

なぜなら、人間には自分自身を正当化しようとする感情があるからです。

 

自分が我慢すれば引き受けられる、という人は、人や組織、社会の役に立ったと納得することで、自分の労力の価値と整合性を取ろうとするのです。

 

断るつもりだった仕事を受ける。この行動が、自ら進んで選択したか、あるいは罪悪感によって選択したものかが重要だと思います。

 

冒頭のエピソードのスクーター修理は、自意識に依る行動なのか、という問題です。

 

気持ちを切り替えて、人助けをすることで世の中に貢献したと自己満足をするのか、それとも罪悪感から逃れるために人助けをしたのか。

言い換えると、自ら進んで「やりたいからやる」のか、「それが正しい」という思い込みの自意識に囚われているのかということです。

  

やりたくない、無理な仕事を断るときに、なぜ罪悪感を抱くのか。

それは、自意識の問題だからです。

 

 なぜ、その仕事を断るのか。自分はどうしたいのか。自分が望むことはなにか。

そのことに目を向けることが大切なのです。

 

仕事を頼むときの礼儀とは

では、仕事を頼む側の礼儀とはなんでしょうか。そもそも、仕事を頼む側とはお客様です。ですから、なぜ礼儀が必要なのかと訝るかたもおられるでしょう。

 

前回のストーリーで、Aくんは自分でエンジンを分解して組み立てられなくなりました。

自分のバイクのエンジンですから、分解しようが壊そうが、他人に迷惑をかけていませんから本人の自由です。

しかし、自分でしでかした失敗を他人にフォローしてもらう、いわば尻ぬぐいをバイク屋に依頼しました。普通に考えればわかりますが、素人がバラバラにしたエンジンを組み立てるのは、通常に組み立てる労力を超えます。ねじや部品が揃っているか、壊れていないかを確認して、プロの仕事として完璧に仕上げなくてはなりません。いわば「やっかいな仕事」です。

日本の民法では契約の自由が保障されていますから、バイク屋としては、断るか、リスクと労力に見合った料金を請求することができます。

バイク屋は、高校生に高額な修理代を請求するのも酷なので、仕事を断ったのだと状況から想像できます。

 

バイク屋に困ったときに相談したら、断られた、高額料金をふっかけられた、という経験のあるかたは、ひょっとしたら、Aくんのような依頼をしたのかもしれません。

 

では、やっかいな仕事を依頼することはできないのでしょうか。そんなことはありません。

前回書いたように、人間には返報性の原理が働きます。つまり、まずは与えることから始まるのです。

 

具体的な例をあげましょう。

あなたは好きなアーティストのライブに行ったら、Tシャツなどのグッズを購入しますか。

たいていの人は、なんらかのグッズを最低一点は購入すると思います。ファンとしての礼儀ですよね。

つまり、わずかながらもお金を落として応援したい、という心理が働いている状態です。

 

アーティストは、ファンに対して「心底ありがたいな、最高のパフォーマンスで応えよう」と思ってライブをするわけです。

 

同じように、気に入った店に少しでもお金を落とすようにすると、店側も「商売させてもらってありがたいな」と、そのお客様に対して礼の精神が働きます。

それが積み重なったものが信頼関係です。

 

お金を払うほうの立場が上、ではないのです。

まず、相手に仕事を依頼し利益を与える。受けた側はありがたいと思い、お客さんのご要望に応えようと一生懸命になる。このような流れが信頼関係を築くために必要なのです。

 

とはいえ、全ての取引に信頼関係が必要というわけではありません。

料金の一番安いところに頼む、たまたま視界に入ったから頼む、ということもあります。

料金や価格を交渉し、相手の採算を一切無視して、無理を言って依頼することもあるでしょう。当然ながら、信頼関係は構築しませんし、する気もないので、一回限りの付き合いと割り切って取引するわけです。

 

支払い義務のない料金は、びた一文出したくない、という人もいます。

例えば、飲み屋で突き出しを売り上げるのはおかしい、という意見があります。

たしかに、飲み屋に入ったら、まずは突き出しが提供されます。頼んだ覚えがない品にお金をだしたくない、という話ですね。

 

私はこれを礼儀だと受け取っています。何時間か楽しく過ごす場所にお金を落とす、そんな軽い気持ちです。

 

どちらも正しくも間違ってもいないと思います。なぜなら、これは善悪の問題ではないからです。

 

取引をするなら気持ちよく、お互いを尊重しよう。という考え方と、義務のない負担を強いられるのは許せない、という考え方の違いなのです。

 

Aくんの話に戻りますが、彼の行動の問題はなんだったのでしょうか。

 

それは、バイク屋と信頼関係を築く前に「やっかいな仕事」を頼んだことではないでしょうか。

以前に、それなりに仕事を依頼してお金を落としていれば、「Aくんの頼みじゃ断れないな」となっていたかもしれません。

ですから、ふだんは安いところで消耗品の交換をして、工賃を浮かすために自分で簡単な整備をしている人は、いざ困ったときにだけ「助けてくれ」と言っても、「うちで買ったバイクじゃないよね」「うちのお客さんじゃないよね」と断られてしまう可能性があります。

 

信頼関係を築くも築かないもその人の自由ですが、その店と信頼関係を築く気がないのに困ったときにだけ助けを求めるのは虫が良い考えでしょう。

とはいえ、困っている人を見過ごせないお人よしな店もあるかもしれません。

ネットで探せば見つかるかもしれませんね。

 

相手に与えるというのが気に入らない。自分だけは得をしたい。悪いけど、付き合いより安さ重視だ。

人間ですから、当然そういう感情をもつこともありますよね。

こだわるものと、気にしないもので、買い方やサービスの受け方を分けている人も多いでしょう。

 

大切なのは、髪を切るにしても、車を整備に出すにしても、自分の大切ななにかを「誰に」頼むのかを意識することです。

自分が、ここは信頼できるなと感じたのなら関係を深めるようにしましょう。

そうすれば、相手も礼を尽くしてくれるでしょう。

 

次回は、なぜ、断ることに罪悪感を抱くのかについて考えてみましょう。

 

 

断りかたの礼儀

高校生のAくんは、自分でエンジンを組み立てようとしてバラしてみたものの組めなくなってしまいました。さんざん悩んだあげくに、プロに組み立てをお願いすることにしました。どれだけの工賃が請求されるのかも不安でしたが、とりあえず聞いてみよう。そう決意をしてお店に足を運びました。

ですが、どのバイク屋に聞いても、「素人の尻ぬぐいはできないな」「高い授業料だったね」「ご自身で分解したエンジンは修理をお受けできません」「こりゃ無理だね、新車買いなよ」と受けてもらえません。夏休みをバイトに捧げて貯めたお金で買った一張羅のバイク。なぜ、自分でエンジンなんかバラしたのだろうと後悔するのでした。そして、思うのです。なんで断られたのだろうと。

 

私たちは、自分ではできないことや、時間がかかったり面倒なこと。また、日常的なことから、命に関わることまで様々な仕事をプロに依頼することが多いです。

 

そのなかで、自分ではどうにもならなくなり、藁にもすがる思いでお願いしたものの、断られてしまった経験を持つかたもいらっしゃるのではないでしょうか。

リストアップした業者全てに断られたり、その人以外は不可能な仕事を断られるとガックリきます。こうなると、問題をどのように解決したらいいのかわからなくなりテンパってしまう人もいます。

 

あるいは、「できねえよ」「やらねえよ」と、けんもほろろに断られたことはないでしょうか。断られるのは仕方ないにしても、「ムカつくな」「その言い方はないでしょう」「気に入らねえな」と思いますよね。

 

さらに、さんざん受けるか受けないか引き延ばした挙句に断られると、「それならもっと早く断ってくれよ。だったらよそに頼んだよ」というパターンもあります。

 

まとめると、断られて困った、断るのは仕方ないが、断り方が気に入らない、あるいは結論を急いで欲しいということです。

 

これら、三つの話には共通する点があります。それは、受ける側が相手のニーズや困りごとを察する、察しようとする姿勢がないということです。言い換えれば、依頼する側は共感してほしいのです。ああ、それは大変でしたね、お困りでしょう。そういった言葉で感情を受け止めてほしいと思うものなのです。

ですから、受ける側の姿勢として、このような方法が考えられます。

 

何とかしてほしい、と困っている相手に対して断るのなら、代替案をだすのはどうでしょう。

ここまでならできますよ、ここを妥協できるのならできますよ、と提案するのです。

 

断るときは、正直に理由を述べて、理解を求めるような口調で話すのはいかがでしょうか。

 

仕事は欲しいが、できるかどうかが判断つかない。なら、期限を切って最初に伝え、了承を得るようにします。

 

相手の立場に立って、思いやる心で、受け止めるように伝えるのです。

いろいろ書きましたが、こんなことは誰もが小学校に上がる前に学んでいます。では、いわば「当たり前」のことをなぜ今さらお伝えしているか、その理由を説明します。

それは、わかってはいるけど、実際にはできていないことだからです。

われわれ人間は、完全ではありません。間違いを犯します。わかっていてもできないことが数多くあります。

たとえば、断られたことで頭に血が上り、相手を口汚く罵ってしまうことがあります。逆に、売り言葉に買い言葉になり、汚い言葉で言い返してしまうこともあります。

また、相手の立場に立てるほどの精神的余裕がなく、他人事だと冷淡になってしまうこともあります。

 

しかし、人間には、ありがたい、うれしいことをされたら、相手にもそのように対応しようとする感情があります。これは返報性の原理と呼ばれている心理のことです。

大体の人は、なにかしてもらったら、お礼をしなくてはと思いますよね。

また、自分がされたら嫌なことは相手にもしないように気を付けますよね。これは特別なことではなく、人間の自然な感情なのです。

 

さきほどお礼をする、と書きました。返報性とは礼です。

つまり、相手の立場に立って、思いやる心こそが礼の精神、礼儀なのです。日本で礼を大切にするのは、お互いが気持ちよく過ごせるようにと先人が創り出した工夫だからなのです。

 

ですから、断りかたに礼儀正しさがあれば、依頼側、受ける側、お互いのさまざまな意味での損害を最小限に抑えることができます。

 

「いやぁ、すみませんね」「いえいえ、いいんですよ」という気持ちの良いやりとりができるようになれば、おだやかに過ごせます。

 

「断る」という行動と、「礼儀」とはワンセットなのではないでしょうか。

 

では、冒頭のストーリーのAくんは、なぜエンジン組み立ての仕事を断られたのでしょうか。断ったバイク屋の店員も思いやりがあるとは言えませんが、Aくんには問題がなかったのでしょうか。

 

仕事を断る側に礼儀があるように、依頼する側にも礼儀があるのでしょうか。

次回は、頼む側の礼儀について考えてみましょう。

 

この仕事、断ってもいいですか

あなたは、「断りたいな」と思いつつも断り切れずに仕事を受けてしまった経験はありませんか。

たとえば、これから映画を観に行く予定なのに、雑用を押し付けられたり、あちこちで断られた難しい仕事が回ってくる。こんな体験です。

 

私も、お断りしたい仕事なのに、つい受けてしまうことが多いです。

納期の厳しい仕事をしていて猫の手も借りたい状況であっても、断れない筋から急な作業を頼まれると断れません。

また、深く関わりあいたくないような内容の仕事であっても、どうしてもと泣きつかれると根負けして受けてしまいます。

 

どちらのパターンにも共通しているのは、依頼主がとてもお困りの様子なんですね。だから、自分が無理や我慢をすればなんとかなるな、とつい考えてしまいます。

 

とはいえ、その仕事のおかげで苦労をすると、「参ったな」「なんで受けてしまったのだろう、はっきりと断ればよかった」とひとしきり後悔します。

いつもなぜ断れないのだろうと考えてみるに、仕事を断ると罪悪感を抱いてしまうことに気が付きました。

 

これは、断られてしまった相手が困っている様子を想像してしまい、申し訳ないなと思ってしまうからでしょう。また、これを断ることは人間としてあり得ないな、という状況もあります。

断るという行為には、それなりのエネルギーが必要です。ですから、なるべく断ることを避けようとします。

とはいえ、全ての仕事の依頼を受けていては身が持ちません。受ける仕事と断る仕事を仕分けた上で、断る仕事は断る。

断る行為に緊張が伴いますが、人生において避けては通れないことです。

 

 

まとめると、社会には断れない仕事と、断れる仕事があり、それを自分なりの基準で選別することが必要だということです。

 

では、断れない仕事とは具体的にどのような仕事でしょうか。考えを巡らしてみましょう。

まず、考えられるのはお世話になった、なっている人からの仕事の依頼でしょう。渡世の義理というやつです。また、状況によっては、断ることで依頼主のメンツを潰すことにもなりかねません。

このような仕事は、ちょっと面倒くさいな、儲からないな、と思いつつも受けないわけにはいかないでしょう。いわば、前倒しでお金を受け取っていたようなものです。面倒でも、儲からなくても、お返しするつもりでお付き合いする。もちろん、ありがたいという感謝の気持ちをもって仕事を受けるわけです。

 

つぎに、自分に責任がある仕事です。自分が初めから関わっている仕事や、自分が直接手を下した成果物の出来についての問題です。いまさら「知らねえよ」は通用しないですよね。

そんなことをすれば、無責任の烙印を押されてしまい信用を失います。だいいち気持ちが悪いですよね。

 

いっぽう、断れる仕事とはどのような仕事でしょうか。それを考えるにあたって、まずは断れる根拠を挙げてみましょう。

 

第一に、その仕事は断れない仕事でない。第二に、やりたくもないし、受ける義務のない仕事。第三に、受けたからには完遂する義務が発生しますから、責任上受けられない仕事。第四に、受けることで現在進行中の仕事に支障をきたす恐れがある場合です。

 

このように、断ってもいいし、受けてもいいものから、断らざるを得ないものまで様々な根拠となる理由があります。断りたい仕事に共通するのは、自分のメリットが少ない、あるいは無いということでしょうか。

 

では、仕事を断ることで受けるメリットとデメリットはなんでしょうか。

最高のメリットは、より自分の仕事に専念できる。これではないでしょうか。

煩わしい仕事から解放されて、自分の得意な、やりたい仕事に打ち込める。最高ですね。

 

いっぽう、デメリットは依頼主が不満感を抱き、離れていくことでしょう。問題解決の期待を裏切られ、悩みが解消しないからです。だから、マイナスの評価をするに決まっています。嫌われたり、頼りにならない奴と認識される恐れもあります。

 

とはいえ、いまデメリットとして挙げたことは依頼主自身がそう言ったなら話は別ですが、これらは依頼を受けた側の勝手な思い込みであって、むしろ自分自身が期待に応えることができない申し訳なさを感じる、と表現したほうが正確でしょう。まさに前述した私の心境です。

相手を失望させたくない、この感情にしばられてしまうのです。

 

いっぽうで、世間には依頼主の事情をくみ取ろうとせず、「その仕事を受けて何の得があるの」とズバッと切り捨てる人もいます。

 

基準は人それぞれですから、内容次第で断ることもあるでしょう。ですが、その言葉に納得感があるでしょうか。断るにしても、相手を尊重する物言いをしたほうが、お互いのために良いのではないでしょうか。

 

仕事を選び、ときには断ることも大切です。しかし、断り方にも礼儀があると思うのです。つまり、断るにも断り方があるということです。

では、困っている相手に対しては、どのように接するのが良いのでしょうか。

 

次回は、断りかたの礼儀についてと、なぜ断らなくてならないのかについて、踏み込んで考えてみます。