中村モーターサイクル商会 仕事の話

仕事について、考えていることを発信していています

「難問――大抵はどちらかが不満を抱えることになる――手間が判らない仕事において、双方ともに納得できる料金を設定すること」

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※この記事は私が書いたnoteからの転載です

「行きつけ」のバイク屋に着いた。
今日はとりたてて用があったわけではない。暇なので時間調整を兼ねて、遊びに来たのだ。

辺りは自然がいっぱいで、来るたびに思うが奥に工房があるとは思えない。道路手前の金木犀の枝は折れそうなほど繁茂して、ドームのように陽の光を遮っているし、建物の横の見知らぬ樹木からは、鳥の巣が今にも落ちてきそうだ。念のため、この下でヘルメットを脱ぐのはやめておこう。

「どうぞ中へお入りください」
工房の主人が出迎える。冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本とりだし一本を手渡すと、粗末なパイプ椅子に座るように促した。
「暑いですね」

ポケットが綻び穴の開いた黒いツナギの袖で、額の汗をぬぐいながら彼は言った。

ペットボトルのお茶を一気飲みしてから応じる。
「ほんと暑いね。ところで、先日なんともスッキリしないことがあってさ。中村さんの意見も聞かせてほしいけど、メニューにない料理の金額って店の言い値?客が妥当だと思う金額?どう思う?」

俺は、先日あった「事件」を話した。

行きつけの割烹料理屋のおばちゃんに「普段は食べられない珍しいものが手に入ったから持ち込みで悪いけど料理して」と願いしたら、美味い料理がでてきた。なかなかの珍味だった。
ところが、お勘定が「常連さんだからサービスしておくね。一万円ね」で、驚いた。

後日ネットで調べたら、その料理は調理の手間が大変とのことで、相場からしたら高額ではなかったのかもしれない。でも、そんなに高いなら最初に言ってくれよ、と思った。仕方がないから払ったけど、腹落ちしない。

「まあ、たしかに、個人経営店ならではの良い点として、メニューにない料理を作ってもらえることがあるよね。それはありがたいと思うよ。おかげで珍しいものを食えたしね」

「そうですね。持ち込んだ食材で料理を頼むなど、チェーン店ではありえないですよね。ましてや珍しい食材なら断られるほうが多いでしょう」
中村は組んでいた腕をほどき、口ひげを触りながら言った。

「でもさ、やってみないと判らないからと言っても高すぎだよね? お客の立場からすると、サービスの提供前に大体の金額を確認して合意をしたのなら問題はないと思うよ。でも俺、値段聞いていないし。不親切だよね」

「はじめに金額を確認しなかったのですか」
そう言うと、整備士は椅子から立ち上がりウエスを持って作業をし始めた。

「今さら話だけど、確認しなかったのは俺のミスだと思う。まさかこんなに高いとは思わなかったし、信用していたからさ。高くなりそうならはじめから大体一万円だと教えてくれたら納得できたと思う。

ぼったくられてるかと不安になるんだよ。変な話だけど、さきに大体の金額がわかってれば安心じゃん。その大体の額の範疇より大きくズレたら信用を失いますよ、消費者センターに相談しますよ、とけん制できるからね」

彼はコンクリートにしみ込んだオイル染みを拭きながら黙っている。俺は椅子に深く座り直して話しを続けた。

「あとね、金額が言えないというのは通用しないでしょう、プロなのだから。ある程度はその場でサッと見積できて当たり前だと思うよ。中村さんだって、そうじゃないの」

ちょっと強く言い過ぎたか。だが、是非ともバイク屋の見解を知りたいと思った。今後のつきあいのためにも。

「あー。それは難問ですね。小さい商売をやっている自分にとっては悩ましい話です。つまり、ぼったくりの被害を避けるため金額をハッキリさせたいわけですね。まあ、正直揉めたくないのはウチも一緒ですよ。

だから、私はそういったケースではあらかじめ多めに伝えています。実際それでも安すぎたと感じることが多いですが」

よくあること、と言わんばかりに作業しながら答える、その他人事のような態度が気に入らない。職人肌というのか、こちらの言いたいことに寄り添わず、突き放すような物言いに反発を覚えた。

俺が言いたいのは、値段が判らないのはそちらの都合であって、こちらの落ち度でもなんでもない。なんで、今までの仕事の経験から金額を割り出せないのかってこと。あんたたち無能なの?
しかも多めに伝える? いわゆるボッタくりは、こうした意図から生まれるのかもしれないな。悪気はないにしても。

それに、こちら客側としては店側の言い値を黙って支払うのが気に入らないという向きもある。わざわざ相手の土俵に乗ってやる必要はないのだ。

「今度仕事をお願いするときでいいんで、俺から金額を提案できないですかね。無理なら断ってくれていいので」

中村は作業を止め、こちらに向き直り言った。
「それなら、料金を交渉で決めるのはどうでしょうか。例えば、先ほどの割烹料理屋の話なら、このような流れになります」

店「これ、持ち込み料として三千円もらって、作るのも大変だから全部で一万円ね」
客「えー高いよ」
店「じゃあ八千円ね。それ以上は勘弁して」
客「じゃあ八千円でいいよ」

どちらにしても、店側が想定より多めに金額を伝えることになるわけだ。そりゃまあ、手間がわからない以上は安く伝えた時点で損をするからな。じゃあ、交渉しない人は損をしているってことだ。

「交渉するにしても、客側が相場を知らないとボッたくられているのかわからないよね。あるていど信頼して任せるしかないのかな」

どちらにしても、こちらが安いと思った金額なら文句はない。だが、ネットで相場を調べて把握しておくのは大事だな。損もしたくないし、あんまり安く言って断られるのも気分悪いしな。

「我々修理業者の話をすれば、実際に作業に入ってみないとわからない部分が多々あるのですよ。試運転まで済ませて問題がないのを確認しない限り、修理完了とは言えませんから。その時点まで追加が発生する可能性があるのです。

とはいえ、お客様側からすれば、なにか問題が発見されるたびに次々と金額が上がりますよと連絡があると不信を抱きますよね。結局、部品代は負担いただきますが、手間はウチが泣くことが多いです。不具合だらけなのはウチの責任ではないのですが」

うんうん、それは分かる。しかし、ソフトにだが、言いたいことは言わせてもらうのが俺の主義だ。

「それはわかってるよ。いつもありがたいと思っているよ。でも、なるべく早く見積をして値段を決めてもらわないとさ。高額なら準備する予算の都合もあるし、これはお客の立場なら当たり前のことだと思う」

センタースタンドをかけた、黒い愛車のタンクに溶け込んだ風景を眺めながら俺は言った。

「ごもっともです。実は、この問題を解決する手っ取り早いがあるのですよ。作業内容によりますが、サービスを定額にするのです。例えば、このように料金が明記されていたらどうでしょうか」

ETCの取り付け工賃表
ネイキッドバイク¥8000
カウル付きバイク¥12000
スクーター¥20000

「たまに手こずる車種もありますが、簡単な作業でもキチンと工賃を取れるから、値段設定さえ間違えなければ、トータルでは採算が合うのです」

なるほど。確かに定額サービスは、もっとも一般的な料金形態だといえる。
このように工賃が明記されていれば、ユーザーはネットで相場を調べて適正価格か確認できるし、なにしろ金額が決まっている安心感がある。想定以上に金をとられる心配がない。

「明朗会計、大いに結構だ。でもさ、簡単な作業なのに多く取られるのは納得いかないな。はやく終わったらその分は安くならないのかね」
実際に手間がかかって大変だったというのなら、あるていどの追加料金は仕方ない。ぎゃくに簡単だったら値引きをするのが当然だ。それが人情だと思う。

中村は、おもむろに立ち上がると作業用ベンチに腰掛けて言った。
「以前テレビで、さまざまなものの値段を調べる企画番組を観ました。もともとボウズ頭の人をボウズ頭にカットしてくださいとオーダーしたら、料金はどうなるかという話だったのですがね。どうなったと思いますか」

「そりゃ、切る量や手間がほとんどないのだから、当然値引きしてくれるでしょ」

中村の説明はこうだった。
その美容師は、ほんのちょっとだけカットすると「終わりました」と料金を請求した。
わずか数分の出来事であった。
「ほんのちょっとしか切っていないですよ」と、タレントが反論すると、「これが当店のボウズです。スタイリング料なのです」という趣旨の返答をした。
カットする髪の量が多いか少ないか、手間が掛かったか、簡単かどうかは関係ない。決まっている料金を請求しただけですよ、ということだ。

「それはヒドイなー。そもそも、そんな仕事で金とるの? まあ、百歩譲って、人が動いたからその料金がかかるのは仕方がない。でも、良心的な店ならやる必要のない仕事を受けないよ」

「依頼したのはお客さん側ですし、やる必要があるかどうかは、本人が決めることです。それがどんなに愚かしいことであっても。店は依頼に応えただけで、なにもヒドイことはしていないと思いますが。カット代は人が動いた手間賃ではなく技術料ですね」

俺は、理屈ではわかるものの、普通に頼んだ時と同じ金額を支払うことが納得できず、やや皮肉交じりに言ってやった。
「なるほどね、技術料ね」

「美容師さんは、お客様のオーダーにオリジナリティを持たせ、人それぞれ違う髪質や頭の形に柔軟に対応しなくてはならないから技術がいりますよね。業界は違いますが、技術料というのはよくわかります。かかった手間や時間ではないのですね。」

「じゃあなにか、これがウチのスタイルですっていえば、極端な話、手抜きをしてもOKってことか。それが君たち職人の技術料なの」

「そもそも、技術の高さという、数値に表し難いものはどう捉えたらいいのでしょうか。先ほどの例であれば、ETCの配線を手抜きして、適当にまとめて押し込み動作に問題ないからヨシとするか、敢えて見えない部分も丁寧に束ねて取り回すか。

同じ料金なのに、作業者の技術力や、やる気次第で仕事の質が違います。つまり誰が仕事をしたのかが重要なのです」

ペットボトルのお茶を一口飲むと、中村は続けた。

「誰でも同じサービスを同じ料金で受けることができるのは素晴らしいことです。例を挙げると、診察報酬はどの医療機関であっても同額です。全ての医療行為に点数が決められているからですね。

では、どの病院でも同じクオリティの治療を提供しているかというと、そうではないと思います。例えば、救急で運ばれた病院の当直医師が整形外科医だった場合、内臓疾患の診断が下手な可能性が高いのは体感的にわかると思います。それでも同じ医療行為なら点数は同じです。

言い換えれば、料金が均一であっても人によって得意な分野は違うから、腕前にはバラつきがある、ということです」

油蝉が鳴き始めた。

「そりゃ、作業する人間によって作業の質が違うのは当たり前だろう。だからこそ、同じ金額で仕事を頼むなら丁寧な人のほうがいいに決まっているからね、もちろんそれも加味して店を選んでいるよ」

俺は、いつもお願いしているタイヤショップの話を引き合いに出した。
その店は、そこらの量販店が敵わないくらい安さが爆発しているが、仕事の質は高い。ホイール脱着作業は、キズをつけないようにスイングアームをバスタオル等で養生して非常に丁寧に作業してくれている。

タイヤ交換工賃が一本千円~だが、タイヤ組みといい、バランス取りといい熟練の技だ。見ていて惚れ惚れする。とは言え、不満がないわけではない。

「タイヤ交換は安いし完璧なんだけどさ、チェーンが伸びていても調整とかしてくれないんだよね。ほら、先日もタイヤ交換した後にここに来て、チェーン調整してもらったじゃないですか。あんなに伸びててもそのままだからなあ。そういうところも手を抜かなければ、もっといい店になるのになあ」

「うーん、それはある程度仕方がない話なんです」
中村が説明するには、ライバル店同士が値段を安く設定して足を引っ張り合っているから、本来なら請求できるハズの適正だと思える金額が取れないのだという。どうみても値段が手間に見合っていないらしい。

だから、チェーンがたるんでいようが、値段が合わなくなるから調整しない。単価がギリギリで商売しているから、数をこなさなければならない。要するに、受けた仕事以上のことなどしている余裕がないらしい。

「まあ、言い換えるなら、美味くて安いラーメン屋に一定以上のサービスを求めるのは酷な話ですよね。水はセルフサービスでも仕方ない。

いっぽうで、技術のいらない誰でもできる仕事であれば、そのぶん競争相手が増えるので値段が下がることは知られています。そして、値段が下がるから割に合わすために雑な作業になるという悪循環になるのです」

確かにその通りだ。時間内に終わらせないと利益がでないのなら、やっつけ仕事でも仕方ない。安かろう悪かろう。それが商売だと思っている経営者がほとんどだ。だが、それを理解した上で、俺たちは店を使い分ければいい。こだわりがないものは、安いにこしたことはない。

そもそも、ユーザーが安さを求めるのは当たり前だ。クオリティが低下する責任をユーザーに押し付けるのではなく、なんとかするのが商売人の勤めだろう。まさにタイヤショップがそうだ。素晴らしい商売をしている。安さと質を両立するとギリギリなのによく頑張っている。だからこそ客が途切れないのだろう。

そして、安くて丁寧で上手な店をどれだけ知っているか。情報を掴んだ者が得をするのが世の中の仕組みだ。情報弱者は無駄な金を払わされる。

窓からそそぎこむ午後の陽射しが、フォークのクロームメッキを照らしだし、まるで宇宙ステーションから見た地球の夜明けのようにきらめいているのを、うっとりと眺めた。

安くもないし定額サービスもできない店(つまりこの工房)は、やってみないとわからない仕事を受けたときは、大穴当てるようにボッタくるしかないだろう。ボーナスのようなものだ。ここぞとばかりに儲けないと成り立たないからな。

この工房にはときどき仕事を頼むけど、実はボッてないだろうな。なんだか不安になってきた。悪いけど、カモにされないように一発かましておくか。

「さっきの話に戻るけど、例えばさ、原因が判らない修理が入ったときに、多めに見積もりを伝えておいて、簡単に直ったらラッキーってことはないの。客には大変だったと嘘を言ってさ。

疑うわけではないけど、そうすれば儲かるよね。今の話を聞いて、そうせざるを得ない状況も理解できたしさ。利益上げなきゃ店を維持できないから、ある程度は仕方がないと思うよ」

我ながら、結構すごいことを言ったと思う。だけど、不透明なのをいいことに素人を食い物にする考え方は、どうしても許せない。この点だけは確認しておきたい。

「確かに、我々の業界では、『簡単な仕事は難しそうにこなせ、難しそうな仕事は簡単にこなせ』といいます。理由は分かりますよね。そうすれば、お金をもらいやすいのです。

ですが、その例で言えば簡単に直るかどうか見ただけで判ることはほとんどありません。そして結局直らなければ、お金貰えませんからね。直ったら直ったで定額ではありませんから、あらかじめ伝えた金額か手間に応じた料金しか頂けないですよね。

工賃をこのケースではいくら請求したとか、他所の店と連携しているわけでもないですし知らないんですよ。前例がない仕事は特に工賃設定に悩みます。時間ばかり食って、実入りは少ないですね。

だから、大手のように資本があるなら、そんな仕事を受けませんよ。明らかに儲かるオイル交換や、ブレーキパッド交換を沢山したほうがいいですからね」

なるほど。いわばギャンブルみたいなものだ。全く手間が読めない作業を受けたら儲かることもあるが、大損こく可能性が大だというわけだ。手堅く稼ぐなら、競争はあるものの安く定額にして数でカバーするのが得策だ。

「もう一つ重要な要素があります。定額ではないサービスの提供は、支払う側の価値観に合わせなくてはなりません」

「つまりどういうことだってばよ?わかりやすくいってくれる?」
まだ、なにかあるっていうのか?

「具体的に言えば、さっきの例えを使うと、美味いラーメンを安く食わせるけど、水はセルフサービスな店があったとします。でもお客さんはそれで納得します。そういうものだと割り切った上で店に来るからです。

しかし、仮に定額ではないラーメン屋があるとしたら、安いけど味が好みじゃない、接客がなってない、といった感想になります。すべてのお客様に満足していただけるサービスを提供するには、一人ひとりのお客様のニーズに合わせる必要がありますが、その手間は計り知れないのです」

「それじゃ、数量で勝負している大型量販店は、仮にメニューにない料理を提供する技術があっても断るしかないってことか」

「そうです。さっき話したように、そもそも金額を決めることが難しいですよね。だから、大型量販店は全く手間が読めない仕事には関わらないよう、持ち込みを排除したうえでニーズのある作業のみ定額化して、その問題から逃げるしかないのです。

しかし、個人経営の――特殊な仕事を受けることでお客のニーズに応える――店は逃げられません」

沈黙が流れる。俺は天使が通り過ぎるのを待った。

中村は、おもむろに口をひらいた。
「手間が判らない仕事において、双方ともに納得できる料金を設定すること――大抵はどちらかが不満を抱えることになる――は、個人経営の店では避けて通れない難問なのです」

まとめ

これは、個人のニーズを深く満たすことで生まれる問題と向き合う話です
・手間が判らない仕事において、頼む側も受ける側もお互いが損をしたくなくないから、客は妥当だと思う金額で押し切ろうとし、店はぼった値段を伝える(伝えない店もあるが)。
・定額サービスは、料金は定額であるがクオリティが一定ではない。
・競争の激しい商売をしている店においては、客側もある程度の割り切りが必要。
・個人経営の店は、店客共に納得できる仕事の質と料金を設定するという難しい問題を抱えている。

昔かたぎのバイク屋のおやじは、なぜ気難しいのか

昔ながらの、ウデはいいが愛想のない店主が経営するバイク店は、近年、次々と閉店し確実に数を減らしています。

「個人名にモータース」の屋号は、今となっては懐かしさすら感じます。

 

今から四十年以上前、まだ量販店もメガディーラーも無かった頃は、個人経営のモータースからバイクを買って修理してもらうのが一般的でした。

モータースには、ウデはいいが気難しいおやじがいて、当時十~二十代の若者は、おっかなびっくり修理をお願いしていた、なんて話を聞きます。

 まず、店に入るまでに勇気がいります。ガラス扉の向こう側は紫煙が漂い、年配の男たちが椅子に座って歓談しているのです。

意を決して店内に入ると、常連たちから「何しに来たんだ」と言わんばかりの視線を浴びます。居たたまれなさに助け舟をだしてもらおうと、おやじさんに目を向けますが知らんふりされます。「すみません」と声をかけてもしばらくは反応がありません。帰りたくなる気持ちを抑え、やや大きめに声を張って、しかし機嫌を損ねないようなトーンで「あの、すみません!」と声掛けする。

遊びに行ってもコーヒーの一杯すら出てこない。こんな雰囲気だったそうです。

 

長くバイクに乗っている人なら、こんな洗礼を受けた、あるいは話を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

なぜ、昔かたぎのバイク屋のおやじは気難しいのか。私なりの考察を述べてみたいと思います。

 

・キーワードは「面倒」

私が修行した店で聞いた話です。先代の話なので、四十五~五十年くらい前のことだと思います。

 

先代がパンク修理をして、お客さんに修理工賃を請求したら、こう言われたそうです。

「おやじ、工賃高いよ。もっとまけてくれよ」

先代は、ああ、そうかいと、タイヤに錐で穴を開けて言いました。

「これで元通りだ」

「おやじ、そりゃないよ。もう一度直してくれよ」

「直してもいいけど、もう一回分工賃貰うよ」

 

ものには言い方があります。工賃高いからまけてくれは失礼ですよね。もし、お金が足りないなら、そう言えばいい。

それをいちいち 口で説明するのは「面倒」くさい。しかし、せっかく直した手間を捨ててでも分からせたい。そういうことではないかと思います。

 

礼儀というのは、あいさつができるとか、お辞儀の角度の話ではなく、相手の立場に立った振舞いのことです。人生経験が浅いうちは、知らずに失礼な行動をとってしまうこともあります。

私は、説教を食らっているうちがマシだったのだと後になって気がつきました。未だに礼儀について考えていますが、分からないことだらけです。人情の機微に疎い自分を情けなく思うことも多々あります。

三十路を超えると、誰も教えてくれなくなります。相手にされなくなります。

若いうちは物事を知りません。だから若さに免じて失礼が許されることもあります。

 

私の先輩から教わった小話があります。

 

「自分でやるから工具を貸してくれ」という客になんと言うか。

「じゃあお客さん。あそこの床屋に行って、自分の髪を切りたいからハサミ貸してくれと言って、借りてこられたら貸してあげますよ」

借りに行った客は一人もいない。

 

まあ、魚屋に包丁でもいいのですが、とにかく商売人に商売道具を貸してくれというのは言ってはいけないんだよ、ということを伝えているわけです。

 

当時の若者たちは、悪気はなくとも無礼なことをしていたのかもしれません。

私はその時代を良く知りませんが、当時バイクに乗っている若者には「ワル」が多かったのは事実です。バイクライディングは現在のような趣味やスポーツとして認知されてはいませんでした。バイクは「不良の乗り物」のイメージが強かったのです。

なめられまいと意気がり、社会より不良の掟に従う彼らをどう扱うか。バイク屋のおやじは考えたはずです。

 昔ながらのバイク屋のおやじが気難しく見えるのは、失礼な態度で正面からぶつかってくる未熟な若者に、いちいち社会のルールを教えなくてはならない「面倒」くささと葛藤していた姿なのではないでしょうか。

 

・お客さんと店の間にある見えない壁を意識できるか

  昔からバイクに乗るお客さんは、「バイクの面倒をみてください」という言い方をします。これは、お客さんが「自分の要望やこだわりを聞いてください」と言っているのと同じです。

そちらは商売してもらって、こちらは面倒を見てもらう間柄になってくださいね、と言っているわけです。

しつこいようですが、この「面倒」は、かったるいほうの意味の面倒ではありません。

趣味では、こだわりを突き詰めます。それは他人からしたら面倒なものです。

可能な限り、わがままを聞きましょう、尊重しましょう、というのが面倒を見るということです。

 

わがままをどこまで許容するか。お互いの気遣いが肝心です。その距離感を探りあうのもまた「面倒」なことです。

お客さんもバイク屋のおやじも、バイク好き同士です。ツーリングに行ったり、談義をしたりと関係性が近くなる傾向が強いわけです。

ですから、「面倒をみる、みてもらう関係」を忘れ、店側と客の間の壁を意識するのがなおざりだと、後で人間関係がやりづらくなるのです。

 

そのような微妙な空気の温度差を、バイク屋のおやじは気難しい態度で伝えていたのです。

もう趣味のバイクに進化を求めていない人は多いと思う

バイク業界では新車が売れないと言われています。それには様々な原因が考えられますが、私なりの考えを述べたいと思います。

 

・新車価格の高騰

環境や安全の観点から、様々な補器類の装着が義務付けられ、開発費も含め価格に反映されているのではないかと推測します。

若者のバイク離れは、バイクに興味がないのに加え、収入の少なさから購入と維持の負担が大きいのも原因と考えられます。バイク乗りの平均的な世代が50代なのは、バイクブームに加え収入も関連していると思います。

 

・新車販売台数の推移

まず、新車が売れていない現状を検証しましょう。

JAMAの公表している二輪車販売台数を見ると、ブーム当時と比較して原付クラスは一割に激減しました。

いっぽう、軽二輪、小型二輪は共に全盛期と比べると、ざっくり三割くらいの販売台数に落ち込んでいます。

このことから、バイク全体の販売台数がブームのときの一割しか売れなくなったという話は、市場の多くを占める原付クラスが足を引っ張っているのがわかります。

ちなみに、レーサーはナンバー登録をしないので販売台数にカウントされていません。ロードレーサーやレースベース車、モトクロッサーなどが該当します。

  

原付クラスは、モンキー等にみられる趣味性の高いラインナップもありますが、一般的なのは足としてのスクーターです。購入層にはバイクに興味がない人も多く、「実用性」が重視される傾向があると考えられます。

数年は整備しながら乗り、痛んできたら乗り換える前提で購入するユーザーが多い傾向を感じます。おもに50~125ccスクーターが該当します。

販売台数は2008年頃に30万台を割ります。駐車場所の規制が高まり、路上駐車ができなくなった影響かもしれません。

 

・趣味性の高いバイクは軽二輪や小型二輪

126cc以上、とくに400ccを超えるものは、趣味性が高いバイクと考えられます。なぜなら、原付クラスと比較して購入価格も高額ですし、燃費も不経済です。実用性だけで選ぶ理由があまりないジャンルなのです。メーカーもこのクラスになると高スペックや豪華さをアピールし、購買意欲を掻き立てます。

 メーカーにはブランド力があります。たとえば、カワサキなら「男カワサキ」という硬派なイメージがあり、一定のファンがいます。

しかし、ここ数年はブランドイメージが最強と言えるハーレーも新車販売不振です。ブランド力だけで売れる時代は終わったのです。

そこでメーカーは、ブランドにヒストリーとレジェンドを組み合わせました。つまり過去に販売した名機の進化版を売り出したわけです。

近年では、アフリカツインが秀逸でした。ヒストリーだけではなく、性能や開発陣の本気度がガチだったので、商品として受け入れられたのだと思います。

  

・新車のラインナップは魅力的か

新車の売れない要素はいろいろと考えられますが、「欲しいバイクがない」という意見の人は多いのではないでしょうか。新車が欲しいのなら、メーカーのラインナップから選ぶしかありません。

しかし、新車のラインナップに気に入ったバイクがない場合はどうするのかという問題があります。これはもっとも難しい問題です。なぜなら、ユーザーの望みが最新スペックである必要もないですし、道具として便利である必要もないからです。

 

 不便益という言葉があります。キックスタートしかないヤマハSRがラインナップに残り続けているのには理由があります。ただ単にレトロチック(懐古主義的)な意味や、「あの頃は良かった」的な美化ではなく、一種の面倒くささや、扱いにくさに価値が見出されている。これが趣味の世界です。つまり、性能より「乗って楽しいか」が問われているのです。

生活を豊かにしてくれる意味では同じですが、家電とはまた違う購買基準があるわけです。

 

・新車は魅力的か

新車には最新技術が搭載されます。ですから、新しモノ好きは気になる存在でしょう。環境に配慮し、安全性も高まっています。製品としてのクオリティは年々高まっているわけです。

反面、バイクいじりを趣味にする人には物足りなさを感じます。手を入れる余地が少ないからです。気軽に整備する気にはなりません。

 

新車を買う理由は「新車」だからです。メーカーの保証がつき、過去に誰も所有していない。当然、事故歴もありません。すべてが新品なので、しばらくは部品を交換しなくても調子良く乗れます。「新車じゃないとだめだ」と、いう人もいます。そのような理由で、新車を「消極的」に購入している層もいるのではないかと推測します。

 

・絶版車に乗り続けるのは難しい

新車のラインナップには興味がないから、気に入ったバイクを乗り続けているユーザーは多いと思います。

メーカーは絶版してから10年以上経過するとパーツを作らなくなります。

とくに、不人気の絶版車は部品がなくなるのが早いですから、壊れると直すのが大変です。不人気絶版車のオーナーは、修理できる業者を探し、ネットオークションで部品を入手して乗り続けているのが現実です。ただ、好きなバイクに乗りたいだけなのに、みなさん苦労しているのです。

 

  ・作文「ぼくのゆめ」

ここからは、私の願望です。意見ではなく、あくまでも現実になったとしたら良いなという話です。

 

 

国内4メーカーが、自社製品の中古車を買い集め、完全にリビルトして販売するプロジェクトが発動。

パーツは型を作り直し、最新の素材を使って壊れにくく製作し、安全性能と強度が高い部品に生まれ変わる。

フレームも新品にする。フレームナンバーは職権打刻し、敢えて中古として売る。だから、規制は車検証の初度登録年に準ずる。エンジンはクランクケース、シリンダーヘッド、シリンダーも含め新品を使用する。

補修部品の供給は可能な限り続ける。

特筆すべきは、メーカーの保証が付き、全国の正規販売店で購入できることだ。

 

 

つまり、「過去に欲しかった名車が、メーカーから保証付きの実質新車で買える」ということです。

題して、タイムスリップ・プロジェクト。

 

もし、仮にスズキGSX1100S刀がメーカー希望小売価格150万円で販売されたら売れると思いませんか。ホンダCB750Fや、ヤマハV-MAX、カワサキGPZ900Rが新車で買えたとしたら。

 

現存する車体しか復活できないのが、このプロジェクトの致命的な欠陥です。バイクブーム時の驚異的な中古車のタマ数に期待するしかありません。すでに海外に輸出されてしまったか、事故や廃車でジャンクと化した車体も多いでしょうし、買い取る費用もバカになりません。どの車種をラインナップするかの選択も難しいですね。

また、現代の規制に適合していない製品を販売するのは、エコロジーの観点からメーカーとしてどうなの?という社会的責任や、法的な問題もあるかもしれません。実際に検討を始めると、課題が山積みです。

 

しかしですね。

 

メーカーさんが、仮にですよ、もし、こんなことを本気で始めたら、中古車専門販売店が迷惑するのではないでしょうか。在庫が売れなくなる可能性が高いです。

普通の中古車より、メーカーが製作した「オリジナル」を欲しくなるのが人情です。やはり、メーカーのブランド力や信用は半端ないのです。

 

・趣味のバイクに進化を求めていない人は多いと思う

 戯言を申しました。ですが、実際にやるやらないの話ではなく、これだけは一人のユーザーの忌憚のない意見として言わせてください。

私は現行のラインナップにはグッとこないのです。

排気ガス規制や騒音規制、様々な制約がある中、ユーザーの心に響く素晴らしい製品を開発されたメーカー技術者には、本当に頭が下がります。決して現行車を否定しているのではないのです。

ですが、趣味で乗るバイクにこれ以上の進化を求めていないのです。昔のままで新車同様がいい。気に入ったバイクを長く乗りたいのです。面倒くさいのも含めて絶版車が好きなのです。

 

乗り続けたいのに部品が出ない。これは個人商店レベルで解決できる問題ではありません。

この問題の現実的な解決路線は、メーカーさんに頑張っていただいて部品を作り続けてもらうことです。

 

人気ある絶版車は、専門店がレストアして販売しています。フレームから塗装をやり直し、エンジンもフルオーバーホールし、壊れやすい部品は現代の部品を使い、長く乗れるように製作していると聞きます。

人気のあるCB750フォアや、カワサキZWシリーズは部品が多く乗り続けやすいのですが、仕上がった中古車体価格が非常に高額です。誰もが買える代物ではありません。

 

外車では最も人気のあるハーレーやトライアンフBMW、ベスパなどは、旧くても部品があり、長く乗り続けやすい部類です。

オリジナルが持つ骨董品的価値にこだわらず(それはそれで価値がありますが)、調子よく乗り続けることができるかが大切だと思うのです。

 

旧い車を「直して乗る」。その一歩先、「長く乗れる工夫」を皆さんも一緒に考えてみませんか。

 

バイクの乗り方に自信のない人へ伝えたい 公道で生きのびる方法論(1)

 バイク修理業をしていますと、ライディングテクニックについて質問を受けることが割と多いです。修理が本業ですが、乗り方のアドバイスをするのも仕事のうちなのです。

 

最初にお断りしておきますが、速く走るための方法は、残念ながらお伝えすることはできません。なぜなら、私にはライディングセンスもテクニックもないからです。しかし、公道で生きのびる方法を語ることはできます。バイクに乗るだけなら、センスやテクニックは程々あれば良いのです。

 

第一弾として、コーナリングの悩みにお答えします。

ツーリングで峠道に入るたびに、不安と緊張を強いられて楽しめない人のヒントになれば幸いです。

 

 ・なるべくバイクを寝かさないのがコツ

ツーリングに行くと、休憩中にタイヤのどこまで使っているか、という話題になります。なんとなく、端っこまで使えていると上手い、真ん中しか使えていないと下手のような気がしませんか。

ですが、公道でタイヤの端っこまで使っている人は上手ではないのです。試しに上手な人のタイヤを見ればわかります。ほとんど端っこを使っていないはずです。

 

「峠道をバイクで走るならバンク角が深いほうが上手い」

この思い込みがある人は、バイクで公道を走る楽しさから遠ざかっています。

 

公道では、なるべくバイクを立てて曲がるように意識しましょう。バンク角が増えれば、それだけ転倒の可能性が高くなります。転ぶと痛いし、ケガをすることもあります。バイクもダメージを負い、修理代がかかります。

 

サーキットと公道では、どちらも危険要素を排除し、安全マージンを高める走りが求められますが、一点明確な違いがあります。

レースやサーキット走行では、すべてのマシンが「レース結果」や、「ベストタイム向上」を目的としています。

いっぽうで、公道を走るすべての車両は、同じ目的で走っているわけではありません。ゆっくり走っている車もいれば、危険運転車もいます。

フルバンク中になにが起こるか予想がつかないのが公道です。

 

また、路面のμが安定して高いサーキットと違い、公道は路面のμが不安定です。しかもブラインドコーナーの先にはなにが待ち受けているかわかりません。

バイクが立っていれば、突然現れたギャップを拾っても振られに対処できる可能性が高いのですが、バイクが寝ていると転倒する可能性が高まります。

 

ジムカーナ特有の深いバンクは、特殊な環境におけるテクニックです。

低速で素早く向き変えするためにはそうせざるを得ないからであって、形だけ真似してフルバンクするのは危険です(マシンもジムカーナ用にセットアップされています)

 

速くて上手な人は、公道でフルバンクするのがリスキーな行為だと知っています。

峠道でビバンダム君を削りとって自慢している場合ではないのです。むしろ、削りとれないよう守ってあげるべきでしょう。

 

また、タイヤを温める目的で、スラロームのようにグリグリとハンドルをこじっている人を見かけます。転んだときのダメージが大きいクルーザーのような重い車種だと、見ているこちらが不安になります。

 

・他のバイクに気を取られないようにしましょう

「先行するバイクが行けたから、自分も行ける」。そうとは限りません。先行車のラインを見て勉強するのはいいのですが、同じラインを選ぶと危ない場合があります。

走るラインは自分で判断しましょう。

 

先行するバイクに惑わされないようにするには、「動く障害物」だと思うとよいです。「モノ」は確かにそこに存在しているが(ぶつからないように存在は認めましょう)、居ないものととらえ、目の前には道が広がっているだけだ、と考えるのです。

 

目を三角にしてコーナーを攻めていると、周囲の交通に注意が行き届かなくなります。ミラー等で、後方にも気を配ります。追いついたバイクに道を譲るときは、道が広くなってからにしましょう。

 

・スムーズな荷重移動を意識しましょう

練習するときは、いきなり飛ばさずにゆっくり走りましょう。体が慣れてくれば自然にペースが上がってきます。

コーナーでは、ピッチングを抑えると共に、スピードをなるべく一定に保つようにしましょう。ピッチングとは、簡単に言えばシーソーの動きのことです。バイクの場合は、フロントフォークとリアクッションの沈み込みととらえてください。

 音楽でたとえると、テンポは一定のままリズムよく曲がります。フルブルーキング、フルスロットルだと、いかにも攻めている感じがありますが、タイムを測ってみると実はあまり速くありません。怖い思いをして危険なだけです。

ノーズダイブを使ったコーナリングは、慣れてからでも遅くありません。

コーナーが複合する峠道では、一つ一つのコーナリングスピードより、全体で均してスムーズなほうが速くて安全です。一つのコーナーだけが速くてもメリットがありません。

まず大切なのは、オーバースピードでコーナーに進入しないことです。バイクが立っている状態で充分に減速します。当たり前のようですが、ついオーバースピードになりがちなのです。とくに、ブラインドコーナーや、登りで先が見えない直線では進入速度を下げます。

アクセルを戻して減速し、フロントブレーキはガツンと握らないようにすると恐怖心がありません。

コーナリング中にオーバースピードだと判断したら、アクセルはそのままでリアブレーキを引きずるようにかけると安定します。

 

・交差点を曲がるときはバイクを立てましょう。

交差点は、なにが起こるか予想のつかない公道の中でもデンジャラスゾーンです。

バイクを倒さないようにするには、なるべく立てるしかありません。ゆっくりとハンドルを切って曲がるくらいでいいのです。転ばないのがなによりカッコいいのです。

 

・峠道を楽に走るためにはライン取りが重要

いかにバンク角が少なく、寝ている時間が少ないラインを見つけられるかが肝です。

鋭角的なラインは、完全停止しない限りあり得ません。なるべく、コーナーを直線的に緩やかに走るのがベストラインになります。速く走るのではなく、安全に走るラインであることに注意してください。

 

マシン特性、交通状況と、天候や路面状況によってもラインは変化します。その時々のベストをリアルタイムで判断して走るのはゲームをしているのに似ています。いかに攻略するか頭を使いますので、恐ろしいより楽しい気持ちが優ってくるのです。

 

具体的なライン取りを伝えるのは難しいです。基本はアウトインアウトです。コーナー進入時にはアウト側に車体が来るラインを選びます。

インに寄るのが早すぎると脱出が辛くなります。そのときの状況次第ですが、インに着くのは立ち上がるギリギリまで我慢します。出口が見えたら、インをなめるように立ち上がるラインを選びましょう。

 

大切なのは、自分自身の理論で組み立てたラインで走ることです。同じコーナリング速度でも、ライン取りは皆微妙に違うのです。

峠道を攻略するのは気合ではありません。センスもそれほど必要ありません。ある程度の経験と理論があればよいのです。

 

目の前のコーナーをどう攻略するか、その場で考えていては危険です。コーナー攻略法をパターン化すれば、そのつど考えずに判断できます。先ほどゲームと似ていると述べた通りです。自分なりのベストラインを導きだしたら、データとして蓄えましょう。パターンに対応するアクションをあらかじめ決めておけば、脳みそへの負担が少なくなります。

 

攻略法が思いつかないコーナーは、ゆっくり無難にやり過ごすしかありません。

引くときは引く判断が大切です。メリハリをつけて走るようにすれば、転倒する可能性を下げることができるでしょう。

ある程度のパターンを経験してデータが揃えば、以前より峠道が恐ろしくなくなると思います。

 

データが豊富になれば、ライン取りが効率的になり、バイクが立っていてアクセルが開いてる時間が長くなります。

その結果、安全マージンが高いまま走りも速くなるのです。

 

自制心と美学について考える(4)

いいかげん「クソつまらない記事はもういいから、空気読んでバイクについてなにか語れよ」と、お叱りの声が聞こえてきそうです。

自制と美学について考えるシリーズも、ついに最終回となります。

 

前回まで、人間関係における以下3点について、長々と意見を述べさせていただきました。

  1. 美学としての自制
  2. 合理的な自制
  3. 思いやりの自制

 

・美学としての自制。

物事は粋に計らいたい。心意気は気持ちいい。しかし、お互いが精神的に成熟していなくてはならないわけです。美学は人に押し付けるものではありません。お互いが察し合うものです。これが正しいのだという主張そのものが野暮でしょう。

人間関係の距離感は人によって違います。

 察し合いが難しいから、明確にルールを作るしかないし、ある程度は合理的に振舞うしかないのです。

・合理的な自制

確かに、ゲーム理論は様々な社会問題を解決する役に立っています。かといって、ゲームのように合理的に考え、相手を血の通った人間として見ない人もいます。ですが、ネットであっても向かい合っているのは人間です。

やられたらやり返す「しっぺ返し戦略」は人間関係において有効な戦略ですが、人間はプログラムではありません。ときには非合理的であってもよいのではないでしょうか。

 

人間も動物ですから、生物として利己的なのは当たり前のことです。なるべく戦わずに(ケガをせず)少しでも多く収穫したい。ライバルを蹴散らして子孫を残したい。いくら偉そうなこと言っていても、誰もがそんなものかもしれません。

しかし、それでは動物と同じだから、約束をしてお互いの権利を守る。約束をすることで、秩序が生まれたわけです。

 

だから、ルールを徹底する。違反者は見せしめとして吊るし上げる。

契約は、絶対に破ってはならない約束事です。破るとペナルティがあります。

きょうび、なにをするにも同意書にサインやクリックをします。

約款をじっくりと読むと、あり得ないなと思うような事柄まで記載されています。

社会の良識が人それぞれ過ぎるため、必要に迫られて契約社会になったといえます。

 

争いに発展するかは、利己的か秩序的かより「不快かどうか」が判断基準になると思います。

例えば、契約至上主義者は、法や契約内容に抵触しない限りはなにをしてもいい、契約に穴があれば(人道に反しても)履行するのは正しいことと主張します(現代では公序良俗に反することは法律で禁止されています)。

シェイクスピア喜劇ベニスの商人では、ユダヤ人の高利貸シャイロックは、敵対する商人アントーニオに金を貸します。復讐として、返済できない場合はアントーニオの肉を要求できる条件を契約書に加えました。

ですが、ご存じのように人肉を切り取る権利は認められるものの、血を一滴でも流すと契約違反になるという、法学者に扮したポーシャの機転の利いた主張により助かります。さらに、高利貸は殺人の罪で財産没収の上、棄教まで求められるのです。

 

この結末は、胸がすっとします。もう、理屈を超えて人肉(生命にかかわる)を要求する行為が不快なのと、追い詰められた状況からの見事な逆転が気持ちいいのです。財産没収までされてしまい、いい気味だと思ってしまいます。

ですが、 冷静に考えてみれば、人肉裁判にたいするポーシャの主張は詭弁ですし、やりすぎの感も否めません。

高利貸は、契約通りの主張をしているのですからきわめて秩序的ですし、引くに引けなくなってしまった状況でした。しかし、彼が憎まれるのは、行いが不快だからです。

共感を呼ぶ行為か、その行為が不快かどうか。それが社会の善悪の掟のような気がします。

 ・思いやりの自制。

人を思いやり、けがれのない気持ちは大切です。かといって、高潔すぎる人とも私は関わりたくありません。水清ければ魚棲まず、といいます。

高潔過ぎれば、自分と違う意見や価値観を間違っていると決めつけるでしょう。

私は、自分だけが正しいと思い込んでいる人の同調圧力の攻撃性が本当に恐ろしい。

間違いや失敗に不寛容で、容赦のない「自己責任」が一人歩きする社会は「共感」という錦の御旗を掲げ、寄ってたかって「間違っている」人を叩き潰します。

「道徳的な人々」が、高利貸しに行った仕打ちは本当に正義なのでしょうか。

自分には理解できない者の存在を肯定するのが思いやりの自制です。

 こうあるべきだ、という執着から離れて、いま、自分はどう感じているか。

そう、自分の胸に問いかける時間を持ちたいものです。

 

・世知辛さをうけいれ商売倫理を自身に問い直す

 

なぜ、バイク屋の仕事と関係のない説教じみた駄文を垂れ流しているのか。この場を借りて説明するのをお許しください。

 

私は商売人に向いていないな、とつくづく思います。

 

ある人物に問われました。

「お金を儲けてなにが悪いのですか」

 この一言に言い返すことができない。反論しようにも言葉が思いつきませんでした。

 

 確かに儲からなければ商売ではない。しかし、儲けるためにはなにをしてもいいのか。

どこまでが許されるラインなのか。

お互いにとって、公平な取引とはなにか。

 

このような「道徳的な考え」は人それぞれです。他人に教えるものでも教わるものでもないと思っています。

私は単に、問いかけを世の中に発信することで頭の整理をしているのです。

 

ネットに実名で発信するのは、正直勇気のいることです。誰かの人権を侵害したら、最悪は訴訟問題に発展します。間違えたことを書いたり、過激な主張をすれば炎上騒ぎになり叩かれます。己の考えなど書かずに済むなら書かないほうが得なわけです。

ですが、チラシの裏に書いただけではまとまらなかった思考が、誰でも読める環境に書き込むことで、くっきりと浮かび上がってきました。

真剣勝負だからこそ、思考が研ぎ澄まされ、物事への関心が強くなり、さまざまな感覚が敏感になるからかもしれません。

 

芥川龍之介が著した「羅生門」という短編小説があります。たしか教科書にも載っている話ですからご存じだとは思いますが、あらすじを書きます。

災害で荒廃した京都に、数日前に仕事をクビになった下人がいました。困窮のあまり盗人になるかと考えますが、勇気がありません。

下人は、死人の髪の毛を抜いている老婆を見て、義憤に駆られてつかみ掛かります。

下人は老婆に髪を抜く理由を問いただしますが、答えが存外平凡なことに失望します。

老婆は、つぶやくような声で言いました。「この女は蛇を魚と偽って売っていた。悪いこととはいえ、生きるために仕方がなかった。だからこの女も自分を許してくれる」

下人は、それを聞いているうちに盗人になる勇気が生まれてくるのです。

「では、おれもそうしよう。恨むなよ。盗まないと餓死するのでな」

下人は老婆の着物を剥ぎ取り、何処へ去ります。

 

人間を鋭い視点で見つめ描写している小説です。人間が生きていくリアルさを考えさせられます。

 

商売をしてますと、ときには悪魔が誘惑してくることがあります。今のところは突っぱねています。染まってしまったら最後だと思います。なんとかギリギリ食べていけているので、持ちこたえる限りは店を続けるつもりです。

 キレイごとを言っている自分を俯瞰できるか。それが重要な気がします。

 

自制心と美学について考える(3)

前回は、囚人のジレンマの戦略について考えました。

「相手が裏切らない限りは、目先の利益に惑わされずに協調を続ける」と結論しました。

とはいえ、あくまでもゲーム理論であって、実際的とは言えない面もあります。今回は、よくありがちなシチュエーションで検証したいと思います。

 

・適正な報酬での取引を考える

①相手が大きく利得があって、自分は少なく利得がある

 

②自分に大きく利得があって、相手は少なく利得がある

 

まずは、この2パターンのうち①について、たとえ話で考えてみます。

 

A君は、明日食う米にも事欠くほど困窮していました。

見かねた知り合いのBさんから飯を奢ってもらい、アルバイトを紹介してもらいました。キツイ肉体労働でしたが、特に技能は必要なく誰でもできる仕事でした。

日当10000円は魅力的です。数か月は仕事があるとのことで、生活が安定する期待が高まりました。僅かながら貯金もできるかもしれません。

 

しかし、後ほどBさんの日当が、実は15000円だと知らされます。

とくに技術的に優劣もなく同じ仕事なのに差がありすぎますが、まだ仕事があるだけマシです。紹介してもらえなければ仕事にありつけなかったわけですし、食べていくためには収入が必要だからです。むしろ、せっかく親切で紹介してくれたのだからと、知り合いの心遣いに感謝します。

 

しかし、相対的にみればBさんに対してA君は損をしているのです。

あなたがA君の立場なら納得できるでしょうか。仕方がないなと諦めつつも、胸にモヤモヤしたものが残るのではないでしょうか。

 

つぎに、シチュエーションを変えて考えてみます。

A君の日当は、実は派遣会社から15000円支給されているが、紹介料として5000円徴収しているとBさんから説明されます。

先ほどの例と同じく、受け取るのは10000円ですが、Bさんにインセンティブが働いています。

 

今後も同じ条件でバイトを続けるか、辞めるか、交渉する。3つの選択があります。

文句を言わずこのまま続ければ、不公平感は否めないものの、しばらくの間10000円の日当にありつけます。

辞めると日当を受け取れません。明日からどうやって生活するか考えなくてはなりません。自分だけが損をした気分にはならずにすむのが救いです。

 

A君が仕事を辞めると、Bさんは受け取れるはずだった利得がゼロになるわけです。紹介料を下げてでもA君に仕事を続けて欲しいはずです。

ならば、お互いが「合理的」に交渉を続ければ、不公平は是正されるでしょうか。 

話はそんなに単純ではありません。

A君は、今の仕事を誰か別の人に取られて、自分が切られるかもしれないと心配になります。誰でもできる仕事だし、Bさんの立場で考えたなら「聞き分けのいい人」に仕事を振るだけで、バックマージンが安定するからです。

それに恩もあります。仕事を紹介してくれた善意を踏みにじっているような罪悪感も生まれます。

だから、合わない仕事だな、自分が食い物にされているなと思いつつも、仕事を続けざるを得ないこともあるのです。

 

・割に合わない仕事を断る余裕のある人とない人がいる

 

優良顧客に恵まれているバイク屋は、一見さんの仕事を断ります。金払いのいい常連さんの仕事で十分潤っているからです。また、よく知らない人の仕事はトラブルの原因になりますから避けたいのです。

 

いっぽうで、仕事がなく金に苦労している店は、仕事を断る余裕がありません。忙しくて手が足りなくとも、とにかく受けます。いつ仕事にありつけるか分からないからです。

 

もちろん、依頼する側にもリスクや経費が掛かっていますから、分配率に関しては仕方のない面もあります。しかし、仕事内容に対して適正な報酬を、対等な立場で話し合っていない部分が問題なのです。

このような、割に合わなくても仕事ができれば構わないだろうという考え方は、やりがい搾取とも関連があります。

弱みに付け込み、少しでも利があるのだから不公平ではあるが非道ではない。全てを奪い取っているわけではないと、うそぶく。

この世の中、仕事を回す側が強いのです。なぜなら、小さなパイを大人数で分け合っているからです。

 

・お人好しや立場の弱い人を食い物にしてはいけない理由

 

他人を食い物にする人間は、知り合ってしばらくの間は、おとなしくして相手の出方を観察しています。

その期間に、相手が「しっぺ返し戦略」をとるか判断して、やり返してこなさそうな人間は「ナメてもいい人」とみなし、やり返してきそうな人は「ナメちゃいけない人」と区別します。

意気地のある、損をしてでも筋を通す人は、面倒くさくて相手にしたくない。関わりたくない。だからお人好しや、弱みがある人を食い物としてターゲットにします。

 

もちろん、食われている側も不満がないわけではありません。徹底的にしゃぶりつくされたら、いつか感情が爆発することがあるでしょう。一度そうなった人は恐ろしいです。

 

窮鼠猫を噛むといいます。追い詰められたら、差し違えを考える人もいます。相手をみてマウンティングしても危険かもしれません。

 

・情けは人の為ならず

相手がお人好しであっても、立場が弱くても、自分の利得を自制して相手の立場に立って考える「おもいやり」が、結果として敵を作らず、自分の身の安全につながるのです。

 

人を人と思わない思考回路の人は、「やさしさ」を考えるより、相手にやり返されるかもしれない、社会に制裁されるかもしれないリスクを考えたほうがいいと思います。

 

誰もが、人を出し抜きたい。序列のなかで優位に立ちたい。

それは当たり前です。しかし、人として許されるラインを超えないよう自制する。

自身の幸福を追求する権利はありますが、他人を不快にしてもよい権利はないからです。

 

次回はまとめになります。

自制心と美学について考える(2)

 合理的な方法で交渉するとしたら、人間関係はどうなってしまうのか。

 

合理的取引を論ずるなら、ゲーム理論が参考になります。ゲームというと遊びのようですが、現代社会の問題にも当てはめることができるため、まじめに研究されているのです。

 

ゲーム理論で特に有名なのが、「囚人のジレンマ」です。すでにご存じの方も多いと思います。

奥の深い研究です。私ごときの理解では説明できる代物ではありませんが、考え方の要点を書きます。

ゲームの概要をウィキペディアから引用します。

 

 

共同で犯罪を行ったと思われる2人の囚人ABを自白させるため、検事はその2人の囚人ABに次のような司法取引をもちかけた[6]

本来ならお前たちは懲役5年なんだが、もし2人とも黙秘したら、証拠不十分として減刑し、2人とも懲役2年だ。

もし片方だけが自白したら、そいつはその場で釈放してやろう(つまり懲役0年)。この場合黙秘してた方は懲役10年だ。

ただし、2人とも自白したら、判決どおり2人とも懲役5年だ。

 

このとき、「2人の囚人ABはそれぞれ黙秘すべきかそれとも自白すべきか」というのが問題である。なお2人の囚人ABは別室に隔離されており、相談することはできない状況に置かれているものとする。

 引用終わり

 

お互いに協調すればメリットがあるにも関わらず、裏切ることでメリットがある場合には協調しなくなる、というジレンマですね。

 

裏切ることで自分だけが得をしたいのもあるし、自分だけが損をして相手側が大きく利があるのを避けたい。やられっぱなしはバカバカしい。お互いが利益を追求すると、お互い裏切るのが合理的戦略になります。

これは一回限り、あるいはゲームの回数をお互いが知っているときの話です。

 

無限に続くのは実際的ではないので、いつ終わるのかお互い判らないが、いつか終わるゲームだとすると、どうでしょうか。

どちらも利得を最大限に追求すると、相手が裏切らないかぎりは協調する戦略になる可能性が生まれるとされています。

 

囚人のジレンマゲームでは、有限無期限が前提なら、トリガー戦略やしっぺ返し戦略が有効とされています。

トリガー戦略は、協調するが、一度裏切られたら裏切り続ける戦略です。しっぺ返し戦略は、初回は協調しその後は前回の相手の手をやりかえす戦略です。なぜ、そうなるのかは説明が面倒なので、興味ある方はご自身で調べてください。

 

ここまではゲーム理論の話です。この先は私の意見です。

 

ゲーム理論には、チェスや将棋の定跡ように、想定された局面において有効な戦略があります。

有限無期限で囚人のジレンマゲームをするなら、最後のゲームで一発裏切れれば、トータルで相手に勝つ可能性が高いのです。

オークションで喩えると、こうなります。

まずは信用を高めるために、少額の取引を大量にします。これらはすべて協調戦略をとります。つまり、確実に支払い、きちんとした品物を渡します。

評価が高まったら、高額のオークションを開催し、詐欺的手法で大金を巻き上げます。つまり裏切り戦略です。ですが、裏切り戦略は一回限りの狙い撃ちとなります。社会的信用を失うか、後ろに手が回ってしまうからです。

 

ゲーム理論でも、トリガーを引くか、しっぺ返しを食らうので、その後の利得は最小になります。

だから、最後のゲームがいつなのか判らない以上は、お互い損をし続けるより、ほどほどで手を打っておいたほうが得です。裏切りを選択しないほうが合理的です。

ですが、この選択には前提があって、今の利得は薄くても将来的に儲かればいい。このように時間を割り引かずに考えることができれば、の話です。

なので、時間を割り引かず合理的に考えると、基本は協調を選択する、しっぺ返し戦略が正しいといえます。

 

・今日もらえる100万円か、10年後もらえる200万円か

ところが人間には、現在より未来を割り引いて考える心理があります。時間が経過するにしたがい、うれしさが薄れていくのです。

だから、未来より現在の利得を重視します。報酬に基づく人間の行動には、時間が関係しているのです。

今日貰える100万円のほうが、うれしいものです。10年後に200万円くれるといっても、その頃が想像できない。私自身も、お金に困っていたり、欲しいものがあれば、迷わず今の100万円を選ぶと思います。

本当の意味で損得を考えれば、10年後200万円を受け取ったほうが得な話なので、そちらを選ぶ人もいるとは思います。しかしお金を受け取るまで10年間待たなくてはならないのです。

 面倒くさいことは後回しにして、今を生きる。それも一つの考え方です。

「そんな先のことより、今が楽しければいいぜ」。小学生のころ、夏休みの宿題を後回しにして、8月30日ごろに焦る。経験がある人も多いのではないでしょうか。

 

協調戦略は、お互いに利があります。いつか終わるのは間違いないが、いつ終わるかわからない取引を繰り返すなら、協調を選び、時間割引を自制すれば、最も利得が多くなる可能性があります。

だから、協調し、相手が裏切を選択した場合のみ裏切り返す。

相手が裏切らない限りは、目先の利益に惑わされずに協調を続ける。

このような結論に達するのではないでしょうか。

 

 目先の利得に固執するか、将来、未来への投資と考えて自制するか。

このように、合理的取引を考えてみても、やはり「自制」というキーワードが現れてきます。

 

精神論や人情論を一切排除して検討しても、人間関係において、自制するのは「得をする可能性がある」といえるでしょう。

とはいえ、まだ検討の余地はあります。次回は、もう一つ別の角度から「自制の美学」についてお話したいと思います。